ジャパンヘルス10周年に揃った業界のリーダーたち(6)

2022年10月18日

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入った会社が新聞社とはいえ、社員3人はしかいない。学生新聞の編集部に入ったようなものだ。園田社長は雑誌部門にいて、此方にはめったに来ない。管理されないので自由で良いが給料が安かった。大学を卒業して入った会社では初任給が11万円だった。ところがこの会社では8万円に減ってしまった。

自宅から通っていたので、朝夕の食事と寝るところの心配はない。この薄給ではどうせ次の給料日までは持たない。それで大半を10日くらいで使ってしまった。使い道は飲み代である。後は昼飯代と新聞代、交通費があれば何とかなる。こんな風だから、昼食にお金が使えない。毎日即席ラ-メンを良く食べていた。たまに社長がやってくると、社員は「健康の仕事をしていているのに、即席ラ-メンしか食べられないようじゃお仕舞だなァ」と嫌味を言う。

季節も3月になり、日々暖かさが増してきた。先輩に新しいスーツくらい買いたいというと、社長に給料を上げるように言えという。それで思い切って社長に言うと「背広を買う特集をしなさい」と真顔でいう。これには驚いた。敵もさるものである。自分の背広を買う代金は、紙面で稼げということらしい。あきれて、以降賃上げの話は止めた。

その頃、世田谷の千歳船橋駅の近くにジャパンヘルスという健康自然食品の問屋があった。社長の名は内藤久義といった。本名を名乗らない理由は分からないが、辰男というらしい。小さな小太りのおじさんで、いつもスリーピースのスーツを着ていた。リーゼントっぽい髪形のそこそこダンディな人で、いつも煙草を手から離さないヘビースモーカーだった。プープーと煙突のように口から煙を吐く。ゴルフ焼けというよりも、心なしか顔が煤けているようにも見える。

この内藤さんに初めて会った日に、ジャパンヘルスが設立10周年を迎えるといわれた。会社に帰って社長に言うと、「10周年のお祝いの特集をしなさい」という。それでジャパンヘルス設立10周年記念ページを組むことになった。この頃、新聞は月に3回発行していたが、一号当たりの頁数はわずか4頁だった。そのうちの1頁を1社のために割くというのだから大変な企画だ。

社長インタビュ-と会社の歴史を記事にして、記事下に取引先から名刺広告をもらった。取引先が広告を出すのだから、私どもも出さないと失礼だといって、ジャパンヘルスからも広告をもらった。特集企画は成功して、新入社員にしては会社にそこそこの貢献をしたと思う。しかしス-ツ代も特別賞与ももらった覚えはない。ただジャパンヘルスからは10周年のパ-ティに招待された。

場所は静岡県の熱海のホテルニューアカオだった。ゴージャスなパーティ会場には200人くらいの人が詰めかけていた。セレモニーが始まると主賓の内藤さんの周りには幾人もの強面ぽくも見えなくもない人たちが並んでいた。後で知ったがホームヘルスグループの社長さんたちだった。当時、百貨店の健康食品の売り場をテナント展開している企業4社が集ってホ-ムヘルスグループと称していた。森谷健康食品、リケン、日健フーズ、そしてこのパーティの主役のジャパンヘルスで、これにベニバナ油の創健社を加えた会社が、当時健康食品の業界をリードしていた。

途中で挨拶に行くと、内藤さんの顔はお酒のせいで赤銅色に変わっていた。「いっぱい食べて、いっぱい飲め」といって、ビールを注いでくれた。親分肌の温かい人だった。

宴会では私が今まで食べたことがないようなご馳走が出た。綺麗なコンパニオンお姐さんのお酌で、お酒も言われるままに飲んだ。入社して初めていい仕事だと思った。

机の隣り合わせた人たちと仲良くなった。「泊まっていかないのか」と言われたが、途中でお暇した。意地の悪い同僚が帰って来いと命じたからだ。

(ヘルスライフビジネス2014年7月1日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)

※第7回は10月25日(火)更新予定(毎週火曜日更新)