貧乏新聞が「米国市場視察ツアーをやる!」(14)

2022年12月13日

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脚光浴びた業界初の紅花油

横浜の片倉町に創健社という健康自然食品の問屋があった。今もあるので、正確には「ある」と書くべきだが、話の行き掛り上、過去形にする。社長は中村隆男という人で、当時50代だったと思う。専業企業ながら大手企業から役員を迎えるなど、他の企業とは一味違った経営をしていた。
専門店を対象にした卸業だったが、商品開発にも力を入れていた。なかでも紅花油を日本で初めて食用油として発売していた。
入社以来、問屋の担当になったため、必然的に私はこの会社を担当することになった。当時は横浜の市営地下鉄がなかった。そこでバスで三ツ沢グランドを通って片倉町まで行った。途中渋滞することもあって、結構な時間がかかった。
 行くときはたいがい中村さんに会う。前の年に全健協の理事長に就任したばかりだったこともあって、会社と協会の両方の取材があった。
 声がやや高く、ガァーガァーとうるさい。創業者だけにワンマンなおじさんだったが、苦労人だけに人を気遣う優しい面も持っていた。親しくなると、紅花油発売の秘話を話してくれた。

リーダーたちの視線は欧州から米国市場へ

この紅花油は米国でサフラワーオイルと呼ばれ、健康自然食品の専門店で売られていた。1970年代には売れ筋
商品になっていた。視察に訪れた中村さんに米国のお店の人は盛んに健康に良い油だと強調した。欧州に行っても健康に良い油だという。リノール酸が豊富だというのがその理由だった。
日本では動物油と植物油を比べて、植物油が健康に良いという考え方は浸透していたが、植物油にも良し悪しがあるということは知られていなかった。帰国して油の企業に聞いたが、紅花油を売っているところはほとんどなかった。三菱系のリノール油脂だけが、塗料の油として搾っていたらしい。それで欧米をまねて圧搾搾りのプラントをつくって絞ってもらった。

最近ではビールの会社が使っているが、〝一番搾り〞というキャッチフレーズを使ったのはこの「べに花一番」が恐らく最初だと記憶している。これが思わぬヒットになった。ギフトの時期には百貨店の健康食品のコーナーでこの油を売りまくった。専業業界の枠を超えた商品に育った。
今では食用油の大手企業の大半が紅花油を出している。それでか「あれは塗料の油だ」と陰口をきく人もいなくなった。
このヒットもあって業者の関心は欧州から米国に移った。加えて米国でビタミンブームが起こっているという。それが理由かどうかは分からないが、創健社は業界の仲間を集めて、米国視察のツアーをやっていた。おそらく米国から学ぼうという謙虚な考えがあったのだろう。

みなぎっていた草創期の熱気

中村さん以下この時期のリーダーたちは本気で業界の発展を考えていたふしがある。
そのツアーに編集長が招待された。夏だったと思う。当時、業界の専門誌「ナチュラルフードマーチャンダイザー」という雑誌社と全米栄養食品協会(NNFA)という業界団体が展示会をそれぞれ開催していた。そのどちらかを視察に行ったと思うが、今では覚えていない。
米国から帰ってきた編集長は興奮していた。「アメリカの市場はすごい」と興奮気味に語る。行ったことのない私たち、といっても3人しかいない編集部だから残り2人だが、話の中身がまるで分からない。写真を見せてもらったが実感もない。
そうしているうちに「来年はうちでやることにした」と言い出した。どうも米国市場視察のツアーを主催するということらしい。編集長はわれわれに米国市場を見せてやりたいと思ったからに違いない。
しかしその時そんな気持ちはこちらには伝わらない。「えらいことになった」と思うばかりだ。広告と購読で得たお金だけで、かろうじて命脈を保っている、潰れかかった新聞社と米国への旅がどうしても結びつかない。だいたいそういうことで企業を集めたこともない。
「平気だよ」と言う。
創健社である程度企業を集めるから、足りない分をそちらで集めればいいということらしい。それでようやく何とかできそうだと思うようになった。

(ヘルスライフビジネス2014年11月1日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)

※第15回は12月20日(火)更新予定(毎週火曜日更新)