自分の人生は日本の再建のために使う(22)

2023年2月7日

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まるで幕末維新の志士モドキの言葉が口を突いて出た。今では恥ずかしい限りだが、子供の時の映画の影響もさることながら、当時流行っていた司馬遼太郎の小説の影響もありそうだ。

学生時代に「竜馬がゆく」をはじめ、司馬遼太郎の幕末ものを多くの友達が読んでいた。もちろん私も愛読者の一人だった。読んでいると小説の中の主人公になった気持ちになる。酔っぱらうと、「ニッポンの夜明けだ!」と意味もなく叫んだ。

その頃、今のJRはまだ国鉄だった。「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンの名残で、夏休みに寝袋を担いで駅から駅を泊まり歩く貧乏旅行が流行った。先輩は手刷りの詩集を売りながら、九州まで行ったりしていた。長髪にジーパン姿、背中にリックを背負って、「カニ族」と言われた。まるで幕末の浪人気取りの者もいた。

これとならんで五木博之も流行っていた。最初の受験に失敗した帰りに、書店で「風に吹かれて」を手にした。新潟からナホトカに亘り、ソビエトや北欧を旅する青春に憧れた。幕末ではなく受験の浪人になって、初めて人生の悲哀を感じた。「青春の門」が週刊現代に連載中されていたが、神田の古本屋には人気作家らしく数多く売りに出されていた。「青春」ということばはなぜか気恥ずかしさを感じた。五木の本を読んでいることは友人には隠していた。それでも、何か自分でも世の中の役に立てるのではないか、という思いは心のどこかにあった。現実は予備校と家の行き来に終始した。

ようやく学生になってみると、学生運動末期で、血みどろの内ゲバで学校は荒んでいた。入学後、クラスでの自己紹介で大半が公認会計士か税理士を目指していることを知ってショックを受けた。まるで受験の専門学校だ。入学早々に学校はロックアウトとなり、最初の1年間は授業がなかった。レポート提出で試験に変えるとの知らせが来たが、授業もしないで進級させてやるといった学校の姿勢に腹が立った。レポート提出はやめた。これが勉強から離れた決定的な切っ掛けとなった。

アルバイトに明け暮れ、酒を飲み歩いた。しかしどこか満たされない思いが残った。人生を浪費しているようだ。心の隙間を埋め合わせるように本を読んだ。しかし小説では心は満たされなかった。同人雑誌を創刊して文学青年の真似事をした。学校の授業は興味をひかなくなっていた。漠然とだが書くことに関係した職業に就ければと思うようになった。赤点を取らない程度に試験の前だけ勉強した。間に合わない科目があると、友人に食事をおごることを約束して、代わりに受けてもらった。5年かけて卒業したが、社会に出てからも単位が足りないという夢を見ることがあった。

先輩の紹介で入社した広告代理店は1年足らずで上司と喧嘩して止めてしまった。校正のアルバイトの後に付いたのがこの仕事だった。しかしこれも仕事自体が浪人のような仕事だった。それで満たされない気持ちが口を突いて出たのかもしれない。「僕も君と同じだ」と言われたが、同じ日本のためと言っても私とはだいぶ違った。

渡辺先生は自分の人生の軌跡を話し始めた。父親は鹿児島から出てきたらしい。兄弟は3人で、長兄の渡辺誠毅さんはその頃、朝日新聞社の社長をしていた。弟さんの名前は分からないが筑波大学の副学長だった記憶がある。このお兄さんは戦前に治安維持法違反で検挙された。拷問にも会ったようだ。先生の話では当時の東大の学生運動のリーダーのような存在だったらしい。同じ農学部だった先生も兄の影響を受けたようで、左翼取り締まりで鳴らした特別高等警察「特高」に付け回されて大変な思いをしたという。卒業して三菱レーヨンに入った。そこで戦闘機のフロントグラスの研究をした。

「その戦闘機で多くの若者が亡くなった」

しかも日本は焦土と化し、敗戦となった。

戦争が終わって自分の人生は日本の復興のために使うと決めたという。

(ヘルスライフビジネス2015年3月1日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)

※第23回は2月14日(火)更新予定(毎週火曜日更新)

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