古守先生の検診で棡原の高齢者の青年のような身体を見る(37)

2023年5月16日

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梅鶯荘の玄関を出ると、「おはようございます」という言葉が響いた。白衣を着た古守先生だった。鞄を持って検診に向かう準備は万端のようだ。

この先生の名前は豊甫(とよすけ)という。まるで江戸時代の蘭学者か漢方医のような名前だが、生まれは大正9年(1920年)だ。この頃61才だったと思うが、私の父より少し上で、その世代にしてはかなり大柄だった。顔はいかつく、古武士のようなという言葉がさも似合う人で、朴訥な話しぶりが印象に残っている。

車が来るまで立ち話になった。毎年8月半ばに検診をしているという。村といっても集落が点在しているので、1日かけてそこを巡る大変な仕事だ。

「道路も出来たし、車もあるし、昔から比べれば楽なもんです」

この古守先生は甲府にある病院の跡継ぎだった。それで医師になることを目指した。ところが受けた東京医専(東京医科大学)は不合格だった。18才の古守青年は代用教員になり、昭和13年の4月にこの村に赴任した。鶴川に沿って点在する集落で、その頃は町からの舗装道路はなく、馬が1頭通れる程度の道があるだけだった。道といっても、急な渓谷を上り下りしながらで、対岸の集落に行くだけでも大変な思いをした。甲府の都会育ちの青年からすると、「絶界の孤島」に思えた。

そのころ大半の村人が林業で生計を立てていた。山間の村に農業をするほどの土地はなかった。狭い傾斜地を耕し、自分たちが食べるための作物を細々と作っていた。いわゆる自給自足の生活だ。この過酷な環境のなか、当時90才、100才の老人が多数元気に暮らしていた。人生とは不思議なもので、これが長寿研究に進む契機となった。

翌年、東京医専に合格して医師となった。そんなころたまたま近藤先生の論文を読んだ。それで棡原を長寿の村ではないかと思うようになった。昭和43年に名誉教授となっていた近藤先生とともに棡原を調査した。やはり日本有数の長寿村だった。以来、この村の長寿の理由を調べることがライフワークとなった。定期健診はその一環だ。

迎えの車が来ると、一緒に乗り込んだ。走り始めた車は細い山道を上り下りしながら進む。車中で今村光一と古守先生の話に耳を澄ませた。

2人は顔を合わせたのは初めてのようだが、まるで旧知のようだった。というのも古守先生はすでに棡原に係わる本を何冊も出していたし、NHKなどのテレビに何度か登場していた健康分野の有名人だった。一方、今村光一はマクガバンレポートのベストセラーで一躍時の人になっていた。互いのしてきたことを知らないはずがない。しばらくすると広い道に出た。

「あれが棡原の典型的な老人です」と指した。見ると路肩をおばあさんが籠を背負って歩いている。90才を超えているという。背は小さいが、背筋がしゃんと伸びている。カルシウムが足りないので、背丈は低い。しかし男女とも腰の曲がった人はいないという。

小学校に着くと校舎中で検診が始まった。しばらく待つと、2人の高齢者に合わせてくれた。検診を終えたばかりで、上半身裸だった。一人は70代半ば、もう一人が後半とのことだ。

「この体を見て下さい」

両人とも背は低く、痩せて見えるが、身体には無駄な肉がなく、引き締まっている。まるで青年のようだと思った。一人は農業で、もう一人は林業をしてきたという。驚いたことに2人ともまだ現役だそうだ。

私はこの年29才だったが、自分の身体つきを思うと、つくづく情けなくなった。呑み屋に足しげく通った結果、身体に脂肪が着いていた。付き合っていた彼女に「赤ちゃんの身体みたいで、かわいい!」と言われたが、嬉しくなかった。棡原と同様に生活環境は過酷だった。しかし、それはあくまでも広告集めのプレシャーによる精神的なもので、肉体的には運動もせず、歩きもしない。ダレ切った不健康な生活をしていた。

(ヘルスライフビジネス2015年10月15日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)

※第38回は5月23日(火)更新予定(毎週火曜日更新)

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