保険に入っても貧乏には安心だ(144)
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「保険金目当ての殺人じゃないのかという話だ」と友人の須藤君。この事件は昨年の8月に米国のロサンゼルスで起きた。ホテルに滞在中の三浦夫妻の奥さんがアジア系の女に頭部を鈍器で殴打され、軽傷を負った。さらにその年の11月には同じロスの市内の駐車場でラテン系の男2名に襲われ、頭部に銃弾を受けて奥さんが意識不明の重体になった。
おかしいのはその後、三浦は奥さんの親族にも知らせずに1億5000万円もの保険金を受け取っていたことだ。これが今年の1月くらいから週刊誌に連載され、騒ぎになっていた。今ではテレビのワイドショーの格好のネタにもなっている。
これだけならば疑わしいだけだったが、それに新たな事実が加わった。実はこの事件の前にも雑貨店の共同経営者で三浦の同棲相手でもあった女性が、やはりロサンゼルスで行方不明になっていた。加えて、彼女の銀行口座から430万円が何者かによって引き出されていたことが分かった。
「なっ。怪しいだろう」と須藤君。いっぱしの推理作家か事件記者気取りで話す。確かに怪しい話には違いないが、それにしてもあなたは一体どうしたのと言いたくなった。というのも、かれこれ10年近い付き合いなのに、こうした類の話に関心を示したことはほとんどなかった。だから彼が三浦事件に詳しいのには正直、驚いたと言うと、「みんなが話題にするから…」と言う。
彼の勤めている予備校の職員の間でも、この話題が上がらない日はないそうだ。確かにこの頃、世間はこの事件の話題で持ちきりだった。
私の耳にも入らないわけではなかったが、職場ではもっぱら薬事法のことばかりだ。この仕事が忙しかったこともあって、ほとんど世間のことには関心なかった。しかし彼の話を聞いて、以前にたまたま見たテレビの映像を思い出した。三浦は日本へ奥さんの移送で米軍の協力を得た。迎えの軍のヘリコプターに発煙筒を焚いて誘導する三浦和義の姿が映っていた。その時は何をしているのかよく分からなかったが、劇的でドラマの1シーンを見ているような気がした。
とにかく私は彼から聞いて、ようやく三浦事件を理解した。そしてこれ以降、私もこの事件のことが世間並みに気になるようになった。そしてこの年の3月、1981年にロサンゼルス郊外で発見されていた身元不明の女性の遺体が、失踪していた女性のものだということが明らかになったと報じられた。手口が似ていることからやはり犯人は三浦だと誰もが思った。この事件から“保険金殺人”ということが言われるようになった。
取材から事務所に帰ると、最近入ったばかりの吉村君がいた。フルネームは吉村敏と言う。面長な顔立ちで、口数が少ない。黙っていると、ちょっと強面で、幕末の志士のようでもある。だから、新聞記者には向いているとは思うが、どうも女性には持てそうもない。そう思っていたが、お酒を飲むとよくしゃべることは後で知った。
一緒に取材に行くと、椅子に腰を下ろしたまま、なかなか話し出さない。顔はむっつりしていて、愛嬌がない。何しろ強面である。しばらく取材相手との間で、息苦しい沈黙が続く。剣豪宮本武蔵の対局のようだとも思う。しばらくすると、たいがい取材される相手が慌てだす。「小次郎敗れたり!」とは言わないが、相手が動揺した頃にようやく要件を話し出す。計算しているわけではない。記者には様々なタイプがあるのだ。
その吉村君が神妙な顔をして、私に話があると言う。何かと思ったら、保険に入ってくれないかという。母親がニッセイの販売員をやっているという。その頃、私は将来のことなど何も考えてはいなかった。それで保険にはまるで縁がなかったが、もう30歳を過ぎていた。親孝行なのだ。後日、母親に会って、一番安いやつなら入ることにした。掛け金が安いということはもらうお金も少ないことを意味している。
「貧乏人は安全ですね」というと、母親は「なんですか」ときょとんとしていた。
(ヘルスライフビジネス2020年4月1日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)