英雄が一朝にして敗軍の将に(159)

2025年9月16日

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ニューヨークには2つの鉄道の駅がある。通勤列車の発着駅となっているグランドセントラル、ボストンやワシントンなど長距離列車の発着駅になっているペンシルバニア、通称・ペンステーションである。

観光を終えた翌日、一行はアムトラックでワシントンに向かうためバスでペンステーションに向かった。

「駅はマジソン・スクエア・ガーデンの地下にあります」とガイドが言った。マジソン・スクエア・ガーデン?これを聞いてすぐに思い出した。「マジソン・スクエア・ガーデンの帝王」と呼ばれたブルーノ・サンマルチノである。我々の世代には忘れることの出来ない外人レスラーの一人だ。

1967年私は中学2年生で、東京郊外の東村山市で暮らしていた。駅前のおばあさんがやっていた小さな本屋でよく立ち読みした。ある日、その本屋の雑誌の棚に入荷したての月刊誌『プロレス&ボクシング』を見つけた。その雑誌に“人間発電所”ブルーノ・サンマルチノが初来日、馬場に挑戦といった見出を見つけた。

力道山亡き後、日本のプロレス界を背負っていたのはジャイアント馬場とアントニオ猪木だった。この馬場がルー・テーズ、力道山から引き継いだインターナショナル・ヘビー級チャンピオンに、このサンマルチノが挑戦するという。大変だ!ベルトが奪われる!そう思うとまるで日本が滅びるような思いに駆られた。 

家に帰って兄に話していると、聞きつけた母親が呆れ顔で、「中学生にもなって、お前は本当に知恵遅れだね~」と言う。いつもの口癖だが、ちょっとへこんだ。

3月に試合は蔵前国技館で行われ、それをテレビで見た。怪力のサンマルチノの得意技はバックブリーカーとベアハッグである。バックブリーカーは人を仰向けに担ぎ上げ、背骨を折る。ベアハッグは相撲の決まり手サバ折りに似て、相手の腰に手をまわして背骨をへし折る。どちら力任せの荒業だ。

一方の馬場は脳天空竹割の馬場チョップで対抗し、死闘を演じた。試合は馬場の勝利で終わったが、初めて見たベアハッグの威力に驚嘆した。以降何度か来日して、日本人には馴染みのレスラーになった。このブルーノ・サンマルチノが活躍したホームグランドがこのマジソン・スクエア・ガーデンだ。

ツアーに同行していた近畿日本ツーリストの山口さんに言うと、「そうそう。そうでしたね」とすぐに応じた。私たちの世代は日本テレビのプロレス中継を見て育った。アムトラックに乗ってしばらくの間、他の人も加わってプロレス談義に花が咲いた。

3時間30分くらいでワシントンのユニオンステーションに着いた。迎えのバスに乗って、連邦農務省(USDA)に向かった。議会議事堂の前はリンカーン記念堂に向けて細長いしかし広大な芝の広場になっている。その両側が官庁街である。ホワイトハウスが見えると、バスの中で歓声が上がった。

USDAでは福場さんの知り合いの食事ガイドラインに関係した担当官の会見が予定されていた。ところが受付でトラブルになった。この日訪問する約束をしていた人がいないと言うのだ。

福場さんに聞くと、「私もどうなっているんだか分かりません」と言う。ちゃんと手紙で「ウエルカムだ」と返事が来たと言う。しばらく受付で押し問答が続いたが、しばらくして相手事情が呑み込めたようで、「日本から来たのか」と何度か繰り替えした。よほど気の毒に思ったのか、電話でなんだか掛け合ってくれているようだった。そして代わりの人が応対するといって、会議室のような部屋に案内された。

ところが出てきた人に福場さんの英語は通じなかった。何を言っても首をかしげている。溜まりかねて英語に堪能な谷口さんが割って入った。すると食事ガイドラインについてはほとんど知らない人だということが分かった。さらに夏休みでその部署の人は大半が休んでいるということが分かった。

ホテルに向かうバスの中で、福場さんはえらく元気なかった。友人に裏切られ上に、若いときカルフォルニア大(UCLA)への留学で培った英語が通じなかった。さらに皆の前で恥をかいたのだ。ニューヨークの時の英雄は一朝にして敗軍の将になってしまったようだと思った。

ところが、この敗軍の将が打ちのめされるのはこれだけではなかった。

(ヘルスライフビジネス2020年11月15日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)

※第160回は9月23日(火)更新予定(毎週火曜日更新)

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