御馳走のロブスターで食当たり(165)

2025年10月28日

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いくら失礼だと言われても、美味しくないものは美味しくない。おまけにあのイヤな臭いまでする。蓼(たで)食う虫も好き好きという言葉がある。蓼は小川の岸辺などで見掛ける赤い実を付ける雑草だ。食べたことはないが大変苦いそうだ。しかしそれを好んで食べる虫がいるという。だから好きなら勝手だ。ただしこんなものを美味しいなんていう奴の気が知れないと思うのもこちらの勝手だ。

食事が終わると、渡辺先生がジャパニーズ・ティ・ガーデンというのがあると言い出した。行ったことはないかと聞くが、行ったこともなければそもそも聞いたこともなかった。昔の万博を記念して作られた大変に見事な庭園だそうで、ここから近いゴールデンゲート・パークの中にあるという。あまり気は進まなかった。しかし葛西博士は違った。「行きましょう」とその気になっている。一番弟子を自任しているだけあって、渡辺先生の言うことには進んで従う。それで行くことになった。ただしゴールデンゲート・ブリッジ(金門橋)も見てみたいと言うと、それではそちらに行ってから行くことにしようとなった。

店を出ると、編集長の様子がどうもおかしい。口数がいやに少なくなった。そして突然、用事を思い出したのでどうしてもホテルに帰ると言い出した。

「用事なんてありましたか…」と言うと、「あるんだよ!」と怒ったような顔をする。しかし、今日は先生と食事と半日観光だと楽しみにしていた。それ以降は夜の食事までの空いた時間は荷物の片づけとおみやげの買い出しに充てると思っていた。

「まあ、それじゃ仕方がないわねェ」と渡辺先生が言い出したので話は終りになった。それで編集長と別れた我々と渡辺先生はタクシーでゴールデンゲート・ブリッジに向かった。

この橋はサンフランシスコ湾の入口の海峡をまたぐ2727メートルの世界でも指折りの大きな釣り橋である。その頃は徒歩でも渡れた。しかし我々は向こう岸まで渡るつもりもない。時間もなかった。それで「途中まで行ってみよう」と言うことになった。しばらくして下を見ると、えらい高さだった。

橋は海面からは227メートルあるという。東京タワーの大展望台が地上から150メートル、その上の特別展望台が250メートルだからかなり高い。毎年海へ飛び込む人がいるそうだが、生きて上がってくる人はいないと以前ガイドが言っていたのを思い出した。

海流がひどく早い。湾から出ようとする船が流れに逆らって進んで行くが、一向に前に進まない。湾の真ん中に島が見える。かつて刑務所だったアルカトラズ島である。その向こう岸がオークランドで、そちらの方に霧がまるで巨大な砂嵐のように陸地から湾の方に迫っている。しかしこちらは雲一つない晴天だった。

「夜は霧だね」とポツリと葛西博士が呟いた。どうしたわけか、記憶はそこで途絶えている。日本庭園は行ったのだろうが、全く覚えていない。

ホテルに帰ると、部屋に向かった。私は編集長と相部屋だった。ドアーをノックすると中から返事があった。

「木村君、あなたの言ったことに間違いはなかったよ」とベッドに倒れこむと編集長は行った。「何がですか」と聞くと、「ロブスター、ロブスター」と言う。食事の後に急に用事を思い出したと言い出したのは嘘だった。理由は気持ちが悪くなったのだ。それでホテルの部屋に帰って寝ていた。寝ている間にも何度か吐いたそうだ。フロントから薬でももらいましょうかと聞くと、「もう大丈夫だ」と言う。やはり腐ったものを見分けるリトマス試験紙と言われた私の舌と鼻の感覚に狂いはなかった。

「しかし不思議だよな」と編集長がポツリと言う。同じものを食べたのに葛西博士には全く症状がみられないことだ。「そうだろう」と私に同意を求める。確かにホテルに帰るまでの2時間あまり、まったく食当たりの症状は見られなかった。やはり不思議だと繰り返した。私もそうは思うが、あの青森のゴキブリ男葛西博士は何を食べても当たるということを知らないのかもし知れないと思った。

(ヘルスライフビジネス2021年2月15日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)

※第166回は11月4日(火)更新予定(毎週火曜日更新)

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