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タコ部屋のサラリーマンの年の瀬は暮れ行く(172)
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その“タコ部屋”から解放される時間がやや早いと、みんな走って居酒屋へ行く。22時30分くらいが頃合いだ。30分か40分だけ、居酒屋で息抜きが出来るからだ。席に着くと、注文しないのに酒が出てくる。常連だから事情は分かっている。顔ぶれを見ただけで用意を始める。これがたいがい外れはない。外れても飲んでしまうから同じだが。
店名は「酒蔵 駒忠」。神田の大塚製薬本社のビルの裏にあった。テレビ朝日のバラエティ番組「欽ちゃんのどこまでやるの」、略して「欽どこ」が人気だった。そこのお母さん役の真屋順子に面差しが似た女将さんがいて、癒し系の笑顔で迎えてくれる。
吉村君にとって運の悪いことに住まいは足立区の綾瀬だった。事務所に近い地下鉄千代田線新御茶ノ水駅から乗って7つ目の綾瀬駅下車である。乗れば17分くらいで着いてしまう。家まではドアツードアでも30分くらいだ。これは我々にとっては都合の良い。乗って一つ目の湯島駅に印刷屋があった。それで締め切りだと、帰りに彼が印刷屋に原稿を持って行く係になった。それが飲んだ後だときついのだろう。
「勘弁してくださいよ」と言う。しかしそうはいかない。私や岩澤君などは少なくとも通勤に1時間以上の時間がかかる。印刷屋に寄っていては、 最終電車に乗り遅れないとも限らない。だから入稿はいわゆる天の配剤なのだ。
「野球だって不動の4番っていうじゃあねえか」と言うと、納得している様子はない。そんな会話をしながら飲んでいると、交換条件を出して来た。奢って下さいと言う。飲み屋の払いである。労働には対価がいると言うことだ。
「奢るわけにゃ行かねえな」と言うと、「いいじゃないですか」と食い下がって来る。それで煙に巻くことにした。「平家物語を知らねえかい」と言うと、タイトルは知っているが、詳しくは覚えていないと言う。学校で習ったはずだと言うと、忘れましたと言う。相手が覚えてないなら好都合だとその冒頭を適当に諳んじて見せた。
「祇園芸者は金になる」と言うと、きょとんとしている。「残業無常の響きあり」と言うと、「なんだか私たちみたいですね」と言う。そこで「奢(おご)る平家は久しからず…」と言うと、どうやら気付いたようだ。説明しろと言うので、適当な話を捻り出した。
むかしむかしの話だ。祇園に芸者がいた。美人で愛想がいいから、金持ちの旦那が付いた。旦那はせっせと通うから儲かる。しかしいくら金が儲かっても忙しくて使う暇がない。だから残業は嫌だ。なのに店のご主人は無情だ。お得意の平さんがお友達を連れて来てるんだから座敷に出ろと言う。
お友達は平さんの奢りなので懐は痛まない。それでどんちゃん騒ぎをして帰る。そんなことを繰り返しているうちに、平さんの家の身代が傾いたという噂を耳にするようになった。
「ほれ見ろ。奢る平家は久しからずだ」と言うと、「まるで落語ですね」と呆れている。そしてそもそも文句が違うし、字も違いますと言い出した。その「おごる」は驕り高ぶることで、飲み代を奢るのと字が違うと言う。「最近の若い者は理屈を言うからダメなんだ」と言ってはみたが、今日は特別に奢ってやることにした。
さて飲み屋を後にして帰宅の途に就くが、とかく暮れは酔っ払いが多い。終電近い通勤列車はだいぶ混雑している。なかなか席に座れない。運よく座れたとしても、安心は出来ない。それこそ席の前に酔っ払いが来たら最悪だ。たいがい吊革を掴ではいるが、首はうな垂れている。泥酔というやつだ。最初はそうでもないが、時間の経過とともにやがて身体が揺れ出す。
しばらくすると隣の吊革をつかんでいる人に寄りかかる。寄りかかられた人は当然避ける。するとその隣の人まで押される。大元の身体の揺れは止まらないから、両側の人は別の場所に逃げる。
そうすると酔っ払いの周りに空間が出来る。邪魔するものがいなくなったせいか、酔っ払いは吊革を支点にしてぐるぐると動き回ることになる。
そのうちこの酔っ払いの顔がたまに歪むことに気が付く。どうも気持ちが悪いようだ。こうなると、表情がよく見えるだけに気が気ではない。こうして高田馬場から粂川までの30分ほどの西武新宿線の通勤列車のシートに座りながら、タコ部屋のサラリーマンの1年は今年も暮れて行くのであった。
(ヘルスライフビジネス2021年6月1日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)