玄米を噛みながら「変な仕事に就いちゃった」(5)

2022年10月11日

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新橋駅前の第一京浜沿いに自然食品店があった。今では近くにゆりかもめの駅が出来て、付近は再開発されて風景は一変してしまった。名前は新橋自然食品センターといった。店主は中津明子さんで、30代の美人ではないがきっぷのよい女性だった。彼女にはもう一つの肩書があった。自然料理研究家として雑誌などで活躍していた。

その店の脇の階段を上がると2階は業界団体の事務所になっていた。日本健康自然食品製造事業協会(日健製協)をいうが、渡邉正三郎というこの分野の老舗問屋の社長が会長をしていた。事務協には中年の男が一人机に座っていた。

「今度入った木村君です」と同僚の葛西が腰かけている男に紹介した。加藤嘉昭事務局長だった。頭は天然パーマで鼻の下には髭があった。しばらく私の身上調査をすると、話題は業界団体のことになった。当時業界には3つの団体があった。全国健康食品協会と日本自然食品販売協会、日健製協だが、どうもこの3つの団体が合同して、一本化をしようとしているらしい。

当時、市場は3つのグループがあった。訪問販売などの無店舗販売のグループ、百貨店の健康食品売り場を中心とするグループ、さらに自然食品などを販売する専門店のグループだった。

訪問販売ではサン・クロレラや毎日商事などの企業がクロレラ、ローヤルゼリー、高麗人参などの売れ筋商品の“御三家”と言われる商品を扱っていた。これとは別に米国系の訪問販売企業も販売を始めていた。たとえばシャクリーやインペックスといった会社はプロテインやビタミン類などを栄養補助食品という言葉を使って販売していた。

一方、自然食品の専門店が無添加、無農薬、有機といった加工食品などを販売していた。この背景には昭和40年代に起こったカネミ油症事件や化学合成の添加物、さらに農産物の農薬汚染などから起こった“食品公害”に対する食の安全志向に、玄米菜食などの健康志向の広がりが強い影響を及ぼしている。

百貨店の健康食品売り場には両方の食品が混在していた。クロレラやビタミンさらに無添加の味噌醤油などが売れ筋商品だった。

当然流通業者も多少違っていた。専門店では創健社、自然食品センター、ムソーなどの問屋が小売店への卸をし、百貨店では森谷健康食品や日本健康自然食などがテナントを展開していた。

この頃の業界ではやや違うグループが交流して新たな業界団体を作ろうとしていた。後年、米国市場を視察すると、有機農産物や自然食品を使った食事とそれを補うサプリメントが一貫したものとして販売されていたし、今も続いている。残念ながら日本では両者のつながりが切れてしまっている。しかし当時は関連した業界団体が一本化し、新たな時代の波に乗ろうとしていた。健康自然食品業界は夜明けを迎えつつあったのだ。

話をしている間に昼になっていた。「ご馳走する」と加藤事務局長。食事を共にすることになった。「良い機会だから、玄米を食べたら」ということで、階下のお店のカウンターで中津女史手作りの自然食料理の定食を頂くことになった。

茶碗に薄茶色の玄米が盛られて出てきた。食べると、固くて、もそもそしていて食べづらい。味噌汁で喉に流し込むと怒られた。「噛まなくちゃダメだ」という。しかも80回噛めという。仕方がないので噛むことにした。変な仕事に就いちゃったと思いながら、ひじきと豆腐をおかずに、無言でひたすら噛み続けた。

※第6回は10月18日(火)更新予定(毎週火曜日更新)