初めての香港の夜は更けてゆく(18)

2023年1月10日

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香港の慶徳空港に着陸した。今はないこの空港は当時、世界的に危険な空港として知られていた。というのも着陸の時に飛行機は無法地帯で知られる九龍城の真上をかすめるようにして着陸するからだ。しかし私には窓の外を見るゆとりはなかった。着陸態勢になると、ジェットコースターが下降するときのように何度もファーとなる。何とも嫌だ。椅子にかじりついているうちに地上に着いた。

空港を出ると外は春のような陽気で、少し蒸す。真冬の東京とは別世界だった。見ると渡辺先生は映画監督の黒沢明が掛けていたようなサングラスをかけている。しかも黒い鞄を蹴飛ばしながらバスに向かっている。ヤクザの親分に見えないこともない。

バスはビクトリアピークに向かった。香港の街が一望できる観光スポットで、100万ドルの夜景として知られている。ところがそこから見える風景には失望した。昼間のせいか街は化粧を落とした水商売の中年女のようだ。煤けたような高層ビルが立ち並ぶスラム街を上からのぞいたようだった。

公共のトイレに入ったら中に人がいた。手を洗うとすぐにお絞りを差し出す。思わず受け取ると、チップを要求された。表に出ると、バスまでの間を子供たちが追っかけてくる。パンダの柄のビ-ズのバッグと白檀の扇子を買えということらしい。「3つで千円」と日本語で繰り返す。無視してバスに乗り込むと、渡辺先生が手招きをする。ここでも隣に座らされた。手にはバックと扇子を持っている。「買ってあげたのよ。かわいそうだから」という。しかも孫のお土産だから、2つあれば良いからといって、残りのバッグと扇子を私にくれた。

「彼女にでもあげなさい」という。好意なのでしかたなしに頂くことにしたが、あまり有難くない。白檀の扇子は見るからに粗雑な作りで、すぐに安物だとわかる代物だ。ただし鼻を近づけると、ほのかに白檀の香ばしい香りがする。本物の白檀の訳はないが、まだましだ。ビーズのバックはこれも見るからにひどい代物で、描かれているパンダの柄がなんだかタヌキに見える。日本で女性にプレゼントできる訳がない。

ホテルに着くとロビーで部屋割りになった。「木村さんは 渡辺先生と…」と宮崎社長からカギと部屋番号を書いた紙を渡された。「ええ! 渡辺 先生と一緒!」と思わず口をついて出そうになった。どうせ厄介そうな先生なので新聞屋に押し付けておけばいいといったところだろう。

よりによって気難しそうな、東京帝国大学の、しかも我々下々と違う、渡辺先生と、3日間も同じ部屋。勘弁してくれ!と言いたいところだが、そうもいかない。すると「木村君よろしく」と先生の方からニコニコしながら近づいてきた。思わず「よろしくお願いします」と頭を下げた。

夕食はアバディーンの水上レストランに行った。映画「慕情」の舞台になったところらしい。辺りは暗いので、レストランは闇に映えて、ネオンで光る竜宮城のようだった。ジャンクで岸から着くと、2階に案内された。思いの外広い空間に数多くの丸テーブルが置かれ、人で込み合っている。名物の海鮮料理を食べながら、紹興酒を初めて飲んだ。船内を心地よい海風が吹き抜けてゆく。周りでは中国語が飛び交って、このエキゾチックな雰囲気のなか初めての香港の夜は更けていった。

(ヘルスライフビジネス2015年1月1日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)

※第19回は1月17日(火)更新予定(毎週火曜日更新)