山梨・棡原の長寿は〝穀菜食〞が作った(38)

2023年5月23日

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昼飯を食べながら考えた。棡原(現・山梨県上野原市でかつての棡原〈ゆずりはら〉村)と長野の田舎がどうも似ている。そう思うと八ヶ岳の峰が頭に浮かんだ。

八ヶ岳は山梨県から長野県にかけて連なる2000m級の山々だ。南から北にかけて、赤岳、横岳、硫黄岳、稲子岳と連なる。八つあるから八ヶ岳なのだろうが、未だにこの八つの峰の名を言えない。真ん中あたりの夏沢峠を境にして、南八ヶ岳と北八ヶ岳に分かれるそうで、馴染みのない山がいくつもある。

この辺りの夏の朝は晴れ渡ることが多い。群青色の空にこれらの峰が鮮やかにそそり立つ。小学校の始めから中学2年生まで、毎年夏休みはこの山を見て過ごした。母の実家が長野県南佐久郡小海町稲子という八ヶ岳の山麓にある小さな集落にあったからだ。

父が家出して、女の細腕で子供二人を養うのは大変だったのだろう。せめて夏の間だけでもと母の実家で私たちを預かってくれた。兄は一族の初孫ということもあって、祖父や祖母に随分可愛がられた。私は付け足しである。

同居している母の弟夫婦も何かに付け、気遣ってくれた。しかし、初めの頃はなかなか田舎の暮らしに馴染めなかった。家業は代々続く百姓だが、いわゆる「3ちゃん農業」で、家を継ぐおじさんは役所勤めだった。子供が畑仕事を手伝うのはこの辺りでは当たり前で、私たちも自然に手伝うようになった。野辺山が近いせいか、稲作も盛んだが、その頃からキャベツやセロリ、白菜など高原野菜を作っていた。この芽吹いたばかりの野菜に水をやるのが私の仕事になった。小川からバケツに水を汲み、ジョウロで畝に沿って水をかけて行く。炎天下できつい仕事だった。

しかし、それ以上に苦痛だったのが食事だ。おかずは毎食野菜ばかりだった。味噌汁には溢れるほどの野菜が盛られていた。それにキュウリ、トマト、ナスなどの生野菜、煮物、それに漬物などで、肉や魚などの動物性たんぱく質はほとんどない。7月終わりから母が迎えに来る8月末まで、一月少々の間、食事に牛肉、豚肉などの肉類が出ることは1度か2度しかなかった。

たまに魚が出ても鮭かホッケで、それも干物だった。山の中の村ではそれでも贅沢品で、週1回程度だったと記憶している。耐え難かったのはホッケの干物で、独特の臭いがして喉を通らない。東京で新鮮な魚を食べていたからだが、食べないと「東京の子は口が奢っている」と叱られた。大人になって、「北の家族」という飲み屋で、ホッケの干物が出てきた。口にするとそれなりに美味しいが、その頃の記憶が蘇って進んで食べる気にはなれなかった。


お盆には都会に出て行った親族まで集まってくる。晴れの日なのでご馳走を作る。その中でまんじゅう作りを手伝わされた。色はやや茶色の酒饅頭である。小豆のあんが入っていて、あま~いあま~いあんこの味を想像すると、思わず口の中につばが溜まった。しばらくして、出来あがりを口に入れた。すると「しょっぱい」と思わず吐き出してしまった。塩あんの習慣が残っていた。

そんなことを話すと、今村光一は食事や生活習慣がこの辺りに似ているかも知れないという。確かに母の一族の姓は井出で、甲斐の武田信玄の家来だったようだ。信濃侵攻で信州に入り、この地に土着した。やはり元は山梨だけに、食事などの文化が棡原と似ていてもおかしくはない。後で分かることだが、祖父は90才になる年まで生き、祖母も99才で世を去った。

平均寿命が男で75才、女で81才の頃の話である。見事な長寿に違いない。「やはり 〝穀菜食〞だなァ」という。古守先生が命名したものだが、棡原の食事は穀物と野菜の食事で、これが長寿を生んだというわけだ。「まあ今の言葉でいえばベジタリアンだな」

(ヘルスライフビジネス2015年11月1日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)

※第39回は5月30日(火)更新予定(毎週火曜日更新)

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