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ポーリング博士の研究を訪ねる(161)
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飛行機はフロリダを飛び立って、最終目的地のサンフランシスコに着いた。この地に寄ったのはポーリング博士の研究所を訪ねるためだった。
この研究所は1973年に分子矯正医学研究所(The Institute of Orthomolecular Medicine)として始まった。私たちが行った1984年にはライナス・ポーリング科学医学研究所(Linus Pauling Institute of Science and medicine)と改名されていた。このポーリング博士は“分子生物学の父”と言われる20世紀を代表する科学者で、1954年に化学結合でノーベル賞を受賞している。さらに核実験の反対運動で1962年にノーベル平和賞も受賞している。ところが3つ目のノーベル賞を取る目前まで行っていた逸話を日本で本人から直接聞いた。
遺伝子の二重螺旋の発見はワトソンとクリックの二人の博士だと言われている。しかしポーリング博士が発見者になっていたかも知れないという話は聞いたことはなかった。当時、博士が遺伝子研究の最先端にいて三重螺旋を主張していた。ところが論文がワトソンとクリックより一週間遅れたのだそうだ。彼らの方が二重螺旋を撮った写真を早く見た。それで彼らに先を越されたというわけだ。もし少し早く見ていれば、3つ目のノーベル賞はポーリング博士の手中にあったと悔しそうな顔をしたのを覚えている。
この大学者は意外な苦労人である。博士の生まれは1901年オレゴン州ポートランドで、父は薬剤師だった。しかし職に恵まれず早くして亡くなっている。それで母親に育てられたが、経済的には恵まれた家庭ではなかったようだ。読書好きの少年は早くから化学に関心を持つ利発な子供だった。学生時代は家計を助けるためにアルバイトに明け暮れる苦しい生活で、高校では単位が足りず卒業証書をもらうことが出来なかったという。
オレゴン農業大学(オレゴン州立大学)に進学したが、経済的理由から大学の授業を受けながらも大学から教職を得て、学業に励んだという。卒業後、カルフォルニア工科大学に進学、化学者の道を歩んでいくことになるが、学者としてのポーリング博士の人生も決して順風満帆とは行かなかった。
ポーリング博士はカルフォルニア大学のバークレー校の教授である理論物理学者のロバート・オッペンハイマーと化学結合を解明するために共同研究を行った。これがノーベル賞につながって行くのだが、このオッペンハイマーは原子爆弾開発と知られる「マンハッタン計画」の化学部門の責任者として知られる。彼はポーリング博士を化学部門の責任者に招聘したが、平和主義者だったポーリン博士はこれを断った。さらに1946年に核兵器の危険性を伝えるためアインシュタインが議長を務める「原子科学者に非常委員会」に出席し、1955年には核廃絶を訴える「ラッセル=アインシュタイン宣言」にも署名している。
こうしたなか1950年に米国ではマッカーシズムと呼ばれたアカ狩りの旋風が吹き荒れていた。ポーリン博士はこの攻撃対象となり、共産主義者のレッテルを張られ、議会での証言を求められた。驚くことにノーベル賞受賞の直前まで、パスポートさえ取り上げられていた。
カルフォルニア工科大学教授の座を去ることになった遠因にはこれらの影響があったことは間違いない。以降、カルフォルニア大学サン・ディエゴ校、スタンフォード大学などで研究を続け、その間にビタミンCに関心を寄せるようになった。当初はスタンフォード大学とシカゴ大学に研究所を設立するよう働きかけたが思うようにいかず、自前の研究所を仲間数人と始めることになる。これがこの頃ビタミンC研究のメッカとなっていたポーリング研究所だ。つまりノーベル賞を取るような大学者でも決して安泰ではない。さらに晩年興味を持ったビタミンCと健康に問題ではさらに不当な扱いを受けて行く。しかしすべてと闘って、自分の信念を貫いて行く。日本の学者ではみたこと見ない。
さてサンフランシスコのユニオンスクエアは街の中心で、ケーブルカーの発着地でもある。一行はこの近くのホテルのハイアットに泊まった。
翌日、朝食を摂りにレストランに行くと、編集長と渡辺先生がテーブルを囲んでいた。先生は私を見ると、「おう!」と軽く手を挙げてあいさつした。2日前にこちらに来て、知り合いに会っていたのだそうだ。
「今日の研究所が楽しみだね」今日から我々に合流して、ポーリング研究所を訪問することになっている。
(ヘルスライフビジネス2020年12月15日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)