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業界悲願の財団が出来そうだ(169)
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日比谷公園の噴水の前のベンチで腰かけていた。秋もだいぶ深まって、木々の葉も色づき始めていた。目の前に池がある。江戸城の濠の跡を池にした心字池である。その真ん中に石を重ねたような島があり、その上から噴水が噴き出している。それを見ながら昼飯に買ったパンと牛乳を袋から出した。次の取材まで時間がなかった。そのとき、ふとどこかで見た風景だと思った。すると日比谷公会堂の方から美空ひばりの歌が聞こえてきた気がした。
「これこれ 石の地蔵さん 西に行くのは こっちかえ 黙っていては 判らない」
『花笠道中』が流行ったのは1962年(昭和37年)。東京オリンピックの2年前だった。母は家出した父と離婚訴訟を起こしていた。それで日比谷にあった家庭裁判所に何度か通った。帰りには決まって日比谷公園に寄った。小学校4年生の私が一緒だった理由は覚えていない。ただ母とこのベンチに腰掛けて、メロンパンを食べた。母もまだ若く、奇麗だった。その時のことを思い出した。
と、そこで「お待たせェ~」と言う声で、現実に引き戻された。岩澤君が現れたのだ。待ち合わせしたのだから当然だ。すると私がパンを食べているのを見て、昼飯ですかと言う。首を縦に振ると、「ずいぶん地味なものを食べてますねェ」と言う。それじゃあ君は何を食べたのかと聞いてみた。松本楼のビーフカレーライスだと言う。ずいぶん金回りがいいなと思ったが、癪なので「ああ、10円カレーね」とケチをつけた。毎年創業を記念して9月25日には10円でカレーが振舞われる。しかしその日をとうに過ぎている。
松本楼と言えばレストランだ。そこそこの値段はするはずで、昼飯の差は歴然だ。しかしやはり企業の人にご馳走になったと種を明かした。その人に会ったのは業界の動きを聞くためだった。「それでどうだったの…」と聞くと、「やっぱり金集めを始めるようです」と言う。財団設立についての資金である。
この間、厚生省に出来た健康食品対策室の目的が次第に明らかになってきていた。このまま行けば来年には財団法人を設立する運びになるかもしれない。健康食品の財団に認可はだいぶ以前からの健康食品業界の悲願だった。唯一の業界団体だった全日本健康自然食品協会が厚生省に働きかけて、1979年に財団法人日本健康食品研究協会が認められていた。しかしあくまでも健康食品の調査や研究が目的で、知識の啓発や普及、品質や安全性への取り組みと言う積極的な活動は出来なかった。厚生省は頑なに健康食品を認めようとしなかったのだ。
それで思い出した。6月だった。農水省の一口で、日清製粉の中研開発の松本室長に会った。この頃、今村さんに代わって、健康食品事業の責任者になっていた。
「どうしたんですか」と言うと、ニコニコしながら、「様子を聞きに来たんですよ」と言う。この人は製粉畑を歩んできただけに、農水省の役人と親しい。それで役所の情報に通じている。何のことかと聞くと、「あ、知らないの」と言うと、厚生省と農水省が綱引きをしていると言う。その会議が今行われているので、その様子を聞きに来たと言っていた。「なんの綱引きか」と聞くと、「いや、いや、いや」と言って、エレベーターの方に消えた。狸である。そのことはよく分かっていたが、ここまで言ったのだから洗いざらい言えばよいのにと思うが、この時点では言えなかったのかもしれない。
その狸を対策室が出来たあと会社で捕まえた。日清製粉の本社ビルは今は神田錦町にあるが、以前は小網町にあった。松本さんは私の顔を見ると、「どうしました」と言う。そこで農水省で会った時の「綱引き」の意味を再び聞いた。「ああ、あの時の健康食品の…」と言ってそこで言葉を切った。こちらがどこまで知っているか探っている。やはり狸である。この時期に話したからと言って問題になるわけでもないのにと思う。おそらく性格なのだろう。しかしそこまで聞くと、こちらも想像はつく。あの時、健康食品を巡る話し合いが行われていたのだとすると、健康食品の所管は農水省にするか、厚生省にするかといことが話し合われていたに違いない。
「綱引きは厚生省が勝って、対策室が出来たんでしょう」と言うと、「まあ、そうゆうことだね」とようやく本音を吐いた。「それで財団を認めようというわけですよね」と言いうと、そこまで知っているのなら仕方がないと言った面持ちで、「だから金集めで大変だ」と言い出した。
(ヘルスライフビジネス2021年4月15日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)