業界団体一本化で全健協がスタ-トした(10)

2022年11月15日

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日曜出勤になって、麹町の駅で同僚と待ち合わせて会場のダイヤモンドホテルに向かった。私事だが付き合っていた彼女とのデートを断って臨んだ私の心はその日の空のように曇っていた。

「仕事だから仕方がないじゃないか」と同僚が励ましてくれる。この男は千葉大農学部の大学院を中退してこの仕事に就いた変わり者だ。大学院を辞めた原因は結婚するためだったらしい。青森の実家は当然反対した。「末は博士か大臣か」と思っていたのかも知れない。親としては相当ショックだったのではないだろうか、仕送りを止められた。学業よりも結婚生活を優先しなければならなかった。学校を辞めて働くことにした。それで私の半年前にこの仕事に就いていた。

「なぜこんな仕事に?」という私の質問に、生薬に関心があったからだといった。ならばなぜ薬の業界のいかないのかと言いたいところだが、人それぞれ事情があるものだ。それ以上聞くのは止めた。

会場に就くと、200名くらいの人で溢れ返っていた。合同するのは日本健康自然食品協会(日健自協)と日本健康食品製造事業協会(日健製協)の両団体で、それぞれの定時総会の後、しばらくすると創立総会が始まった。

名称は全日本健康自然食品協会となり、新たな役員が紹介された。理事長には創健社の中村隆男社長が就任した。当時、食用油の「べに花一番」が世の中に知られるようになっていた。

その時の挨拶の大半は忘れたが、甲高い声で「このような高いところから~」とか、「製造、卸、小売が一堂に会し、業界をけん引して行く団体として~」などと言っていたようだがほとんど覚えていない。

この時期、私はまだこの業界団体1本化の意味はまるで分かっていなかった。しかし以降これが業界を強力に引っ張って行く機関車の役割をするようになる。

新たな役員の顔ぶれを見て、一癖も二癖もありそうな強烈な個性派ぞろいだった。振り返ると理事長になった中村さんが50代、合同前の日健自協の理事長だった内藤さん(内藤久義・ジャパンヘルス社長)は40代、副理事長の福島さん(福島孝定・リケン社長)、渡辺さん(渡辺寛二・サンライト社長)の面々は皆40代だったと思う。後年中村さんから理事長を継ぐことになる森谷さん(森谷龍一・森谷健康食品社長)はまだ30代だった。

経営者の大半が叩き上げの創業者で、エリ-トはいない。業界全体も若く溌剌として、エネルギ-に満ちていた。

パ-ティに移ると、美味しそうな食べ物が並んでいる。乾杯の後、顧問に退いた内藤さんに挨拶に行くと、「若いんだからどんどん食べて行け」と相変わらずだ。日健製協の事務局長だった加藤さんは事務局次長に収まった。

中村さんに挨拶すると、「一度横浜にいらっしゃい」という。本社が横浜の片倉町にあることをまだ知らなかった。

パ-ティの料理をお腹一杯頂いて、ほろ酔い気分で帰途に就いくことになった。駅までの帰り道、同僚が嫌なことを言い出した。締め切りの原稿のことだ。今日の事があるので、1面のトップの記事の締め切りは月曜に伸ばした。その原稿について言い出したのだ。彼は前の方は僕が書く、後の方は君が書けという。奇想天外なことを言う癖があるが、これには驚いた。どう書いたら良いのか分からない。それでごねることにした。しばらくすると、「じゃあ全部僕が書くよ」と言い出した。あきらめたようだ。お蔭でその日は原稿を書くストレスから解放された。

(ヘルスライフビジネス2014年9月1日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)

※第11回は11月22日(火)更新予定(毎週火曜日更新)