専門店を始めた理由は玄米菜食と食品公害(11)

2022年11月22日

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健康自然食品の販売をする専門店を取材して連載することになった。「小売店訪問」というのがそのタイトルだ。販売の最前線からの情報を製造や卸の人たちに伝えようという企画だった。

しかし、小売店を訪ねてもお金にはならない。広告は当然としても、購読してくれる小売店もほとんどない。同僚に聞くと、零細な店が多く、“余分なお金”がないからだという。我々の新聞の購読料は「余分なお金」と小売店ばかりか同僚も思っているらしい。で、お金にならない“余分な仕事”は新人がやることになった。つまり私だ。しかし、これがやってみると意外に面白い。記者として貴重な出会いが数多く待っていた。

その一つが小売店の成り立ちだった。はじめの頃、五反田にあった民間医学社という名称のお店に行った。確か五反田の桜田通りを高輪方面に進み左側にあった覚えがある。通りに面した間口の広いお店だった。店主は中田治平さんと言って業界のリーダーの一人だった。すでに70歳近い白髪の品の良い顔をした方だったが、作業着のようなものを着て店頭に立っていた。午前中の比較的暇な時間を見計らって行ったが、客足は引きも切らない。

「繁盛してますね」というとにっこり笑って、「おかげさまで」と返してきた。

売り上げは月1000万円を超えるという。専門店の中でも全国指折りの店の一つだ。始めたきっかけはこの業種の創業者に多いが、自らの身体を壊したからだという。普通の医療では治らず、玄米菜食で健康になった。これを仕事に出来ればと思いたち、当時渋谷で専門店を開いていた小林類蔵さんのところで修行してこの店を開いたという。

小林さんというと、玄米菜食の「マクロビオティック」の生みの親の桜沢如一氏の弟子で、自然食品の店を日本で初めて開いた人だ。場所は渋谷駅からハチ公前のスクランブル交差点を渡り、岸記念体育館方面に進み、公園通りを超えた右側の一等地に近い場所に店を構えていた。自然食品センター本店が店名だった。

その頃は玄米菜食をしたくても、それに使う味噌、醤油と言った調味料や有機農産物などが手に入り難かった。店の存在を知ったお客が全国から押し掛けた。そしてこの店名を真似た店が全国に出来てくる。以前は「○○○自然食品センター」という名称の店は日本全国どこでも見られたものだ。ところが最近、店名からこの名称がめっきり少なくなった。世代も変わってきているので仕方ないことだが、寂しい限りだ。

とにかく取り扱う店が多くなったことで、自然食品センター本店は問屋としても発展した。中田さんはそんな小林さんのところで仕事を覚えてお店を始めたらしい。

しかし、そういう事情ではなく専門店を始めた人もいた。東京の23区以外を昔は三多摩とか都下と呼んだ。都内に対して都下とは差別的な言い方に聞こえるが、三多摩は確かに東京の中の田舎だった。その三多摩の小金井に東京シードという小売店があった。社長は古谷博さんと言った。シードというと種のことだろうから、自然食品の販売とどうしても結びつかない。

「いや、そうじゃないんだ」と理由を説明する。種苗会社と農薬の会社は関連していて、種苗の仕事をしていると、農薬の恐ろしさが分かる。それがこの仕事を始めたきっかけだという。種苗と農薬の問題は遺伝子組み換えの農産物の問題を見ても未だに同じようだ。

「農薬やカネミ油症問題、さらに添加物問題などもあってこの仕事を始めた」

レーチェル・カーソンの「沈黙の春」が米国で出版されたのは1962年のことだ。殺虫剤のDDTや農薬などで、鳥の鳴かない沈黙の春が来ると象徴的に表現した本で、化学物質の生態系への影響を指摘して世界的ベストセラーになっていた。75年には有吉佐和子の「複合汚染」が大きな反響を呼んだ。その間、カネミ油症などの問題が起こっていた。いわゆる食品公害の問題である。健康自然食品の専門店を始めた人たちにはこうした背景があってこの仕事を初めて人たちも多かった。

(ヘルスライフビジネス2014年9月15日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)

※第12回は11月29日(火)更新予定(毎週火曜日更新)

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