12年物の「シーバスリーガル」をご馳走になる」(19)

2023年1月17日

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帰り際、ホテルのロビーでヘルシー産業の営業部長をしていた本多さんからカラオケに誘われた。カラオケは日本でも流行り始めたばかりだったが、香港にも日本人を当て込んで歌える所があるようだ。

行けば必ず歌わされる。それは良いとして、素人の下手な歌をいやというほど聞かされる。こちらはどちらかというとフォークソング世代だ。本多さんたち中年の世代はたいがいが歌謡曲と相場は決まっている。
さらに年上の社長たちの世代になると軍歌をがなる人もいる。この世代は歌の上手い人も少ない。軍歌の合唱ともなると、スナックはさながら轟音鳴り響く戦場と化す。

これらの人たちが共に好むのが演歌だ。これを歌うとなると哀愁満ち満ちて、陰々滅々である。
悪いことに前の年のレコード大賞は矢代亜紀の「雨の慕情」だった。「雨々ふれふれ もおとふれ 私のいいひと つれて来い」阿久悠作詞の名曲だが、その頃は陰々滅々の暗い歌だと思っていた。これをいやというほど聞かされるに違いない。

ただ心を少し動かされた。本多さんが「シャオジェ(小姐)もいるよ」と言ってにやりとしたことだ。聞くと中国語で若い〝おねえちゃん〞がいるバーのようだ。行くか行かないか迷っていると、渡辺先生から声がかかった。

「夜は危ないから、ホテルにいなさい」

この頃、中国は毛沢東の始めた文化大革命が失敗に終わって、1978年から鄧小平の改革開放政策が始まっていた。日中間の交流が盛んになっていて、日本ではテレビなどで「日中友好」「熱烈歓迎」などの言葉が飛び交って、ちょっとした中国ブームが起きていた。

ところが中国では文革で農村に下放された都会の青年が放置されたままになっていた。貧しさに耐えかねたこれらの人たちが不法に越境して、香港に逃げ込むようになった。こうした市民権を持たない人たちはまともな仕事に就けない。香港で暮らすため、違法な商売に手を出す人も多い。さらにホームレスになって、ボロをまとって路上を徘徊する。この頃、九竜城と呼ばれるスラム街は繁栄を極めていた。

確かにその頃の香港は必ずしも安全な観光地ではなかった。かといって渡辺先生に従えば香港にいる間、夜はホテルの部屋で閉じこもることになる。そうなると東京帝国大学出の先生と一緒にいなければならない。どうも気づまりだし、何はともあれ面白くない。だがもはや選択の自由はなさそうだ。お金もないことだし、外出は諦めて部屋にいることにした。

ところが人生捨てたものではない。幸運が待っていることもあるのだ。部屋の机の上にウイスキーのボトルが置いてあった。ラベルを見ると「CHIVAS REGAL」と書いてある。初めて見る銘柄で、「シーバス リーガル」と読むらしい。しかもボトルの真ん中に「12」とあるのは12年ものということだろう。これだけ寝かしたウイスキーなら相当高級なお酒に違いないと、思わず嬉しくなった。意地汚いようだが、酒飲みとはそういうものだ。

当時私はサントリーの「ホワイト」やニッカの「ノースランド」を飲んでいた。学生の頃の「トリス」や「レッド」は飲まなくなっていたが、「オールド」や「ブラックニッカ」はまだちょっと贅沢な気がした。ましてや外国のものを口にすることはほとんどなかった。

ある時、学校の先輩の家を訪ねた。両親と同居だったせいもあって、酒宴にお父上が「ジョニーウォーカー」を出してきた。貰いものらしいが、「一杯だけだよ」というと、ボトルをうやうやしく高く捧げてグラスに注いでくれた。此方もグラスを掲げて、有難く頂いた。口に含むと遠くスコットランドを思った。

その大地に眠る泥炭の芳醇な香りがした、とその時は思った。ところが後年、赤ラベルの値段は「ホワイト」とさほど変わらないことを知った。値段に拘るわけではないが、がっかりしたことを覚えている。

「お酒を飲もう」と風呂から出てきた渡辺先生が言う。どうやらその12年ものスコッチをご馳走してくれるということらしい。それならどんな苦痛にも耐えられそうだと腹を括った。

(ヘルスライフビジネス2015年1月15日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)

※第20回は1月24日(火)更新予定(毎週火曜日更新)