えらいこっちゃ! 渡辺先生が顧問になってくれる(28)
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3月31日は寒い霙交じりの雨が降っていた。
後楽園球場でピンクレディーの解散コンサートが行われた。翌日のワイドショーではその話で持ち切りだった。ラーメン屋のテレビでその模様をやっていた。2年前のキャンディーズ解散コンサートと大分違っていた。一世を風靡した人気グループも下り坂になると、何か物悲しい雰囲気が漂っていた。
味噌ラーメンをすすっていると、誰かが番組を切り替えた。星野智子の顔が大写しになった。昼時の店内の喧騒で声がどうも聞き取れない。NHK連続テレビ小説「なっちゃんの写真館」が始まり評判を呼んでいた。写真家の立木義浩のお母さんがモデルだという。
「星野智子もいいが、萬田久子もなかなかだ」と全健協の副事務局長の加藤嘉昭さんがぼさぼさの髪を掻き上げながら言う。いつも忙しそうなことを言っているが案外暇なんだ。
私の表情に出たのか、「いや昼飯時に最近たまに見るからさ」と言い訳をした。
「ところで…その先生とやらの話はどうなっているの」と加藤さんは渡辺先生の話題に替えた。加藤さんには久しぶりに会った。電話で香港でのさまざまな話をすると、昼飯を奢るから市ヶ谷まで来いという。つまり協会の取材ついでに昼飯でも食おうということだ。土産話はその時に、ということになった。
「とにかくすごい先生なんだ」というと、まだ詳細を話していなので、加藤さんは合点がいかない顔をしている。無理もないがこちらも説明するにも、そう詳しく渡辺先生のことを知っている訳でもない。香港での話をしながら、
「すごい」、「すごい」を乱発しても、加藤さんにはいっこうに伝わらない。とにかく「あんたがそんなに言うなら、すごい先生なんだろう」ということになった。
「帰った後行ったの、その先生の所へ」という。
まだだというと「電話もしてないと忘れられちゃうよ」と急かす。分かっているが何となく気が重いのだ。あの難しい話をさも分かったふりして聞くのは気が進まない。レジの脇の公衆電話を指さして、「あそこにあるよ」と促す。仕方なしに受話器を取った。財布を見ると、10円玉がない。席に戻って、「やっぱり後でしますよ」と言うと、加藤さんが10円玉を突きだした。
「はい、渡辺です」と先生の声が受話器の向こうから響いた。あの時の木村だというと覚えてくれていた。翌週に編集部全員で来いという。全員といっても編集長を含めて3名だった。
東京の文京区には東京大学があるが、ちょうどこの裏側が千駄木というところで、地下鉄千代田線の千駄木駅と西日暮里駅の間に事務所があった。先生は三菱レイヨン退職後にはライフサイエンスコンサルタントという肩書で仕事をしていた。その中に健康食品の企業もいくつかあった。
閑静な住宅街の中を行くと彼岸桜が咲いていた。事務所のあるマンションにたどり着いてドアを開けると、プーンとニンニクの香りがした。これは餃子の匂いだと思った。応接間の机の上にジョニー・ウォーカーのボトルが置いてあった。どうも餃子は酒のつまみのようだ。
「よく来た。よく来た」と先生はご機嫌でグラスを私たちに手渡した。午後1時過ぎの時間帯でやや気が引けたが、それも1杯目までだった。さっそくビタミンと健康の話になった。香港の夜と同じだ。ポーリング博士にぞっこんの同僚は多少勉強していることもあって先生と楽しげに話している。今回は他に聞き手が2名いる。私はひたすらお酒を飲んでいれば良いと高を括っていた。2時間もするとボトルはすっかり空になった。その頃には同僚は相当に出来上がっていた。「先生、あんたは偉い」などと言い始めた。目が据わっている。これはダメだと編集長も私も同時に思った。それでお暇しますということになった。
すると先生が言った。
「君たちの会社の顧問になってあげる」
彼を両側から抱えて駅へ向かった。あんな偉い先生がこんな新聞の顧問に、しかも無給で良いという。えらいこっちゃと思いながらも、心の高揚を抑えることが出来なかった。
(ヘルスライフビジネス2015年6月1日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)