今村光一と初めて長寿村棡原に行く(35)

2023年5月2日

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しばらくした8月の半ばだった。朝食から帰ると電話が鳴った。受話器を取った博士は「ご指名だよ」と私に渡した。電話の主は今村光一だった。セミナー以降、今村光一は私の担当ということになっていた。難しい話をする学者系の渡辺正雄先生は葛西博士に押し付けた。しかしそのとばっちりで変人系の今村光一を押し付けられた。

「これから棡原に行くんだけど、行きませんかねェ」という。棡原というと確か山梨県にある長寿村だ。中央線の高尾駅から3つ目の上野原駅で降りて、タクシーに乗ればすぐのところだという。この長寿村の写真を近く出す本に載せたいので写真を撮ってくれというというのが用件だった。翌日は古守先生が定期検診をやっているので、泊りになる。泊りの宿代と酒代はこちらで持つという。飲ませれば何でもやると思っている。

編集長にいうと「しょうがねェなァ」と言いながらも、行って来いという。「ちょっと待って下さいよ」と抵抗したが、結局行くことになった。

その日は原稿の締め切りだった。土曜日で、仕事が終われば友達やオネエちゃんと呑み屋に繰り出して、楽しい“サタデイ・ナイト・フィーバー”で、翌日は当然、昼まで寝て、魂のリフレッシュと思っていた。それが山の中の村で変人と2日も過ごさなければならない。ちきしょうたまったもんじゃねェと思いながら、原稿を急いで書き上げて中央線に飛び乗った。

上野原で下車すると、暑さはやや和らいだ。駅前でタクシーに乗った。もう少しだと思うとほっとした。時計を見る針は6時を指している。夏の陽は長い。窓外の風景に目をやった。上野原の市街地を過ぎると、車は山に中に分け入って行く。鶴川の渓谷に沿って九十九折(つづらおり)の道をしばらく行くと、小さな盆地に出た。この集落が棡原の中心だが、さらに険しい間道をしばらく上ると、民宿の梅鶯荘(ばいおうそう)に着いた。辺りは木の香りが満ちていた。

玄関脇の部屋の引き戸を開けると、今村光一の笑顔があった。驚いたことに、その向かいに女性が一人座っている。小野寺暁子さんといった。テレビのレポーターで、健康と食生活の研究家としても、その筋で結構知られているようだった。翌年になるが、今村光一と共著で「今の食事が子どもを狂わせる」という本を主婦の友社から出している。

「すいませんね。急にお願いして」といっても、そうすまないと思っている風はない。

テーブルには長寿食がずらりと並んでいる。まずはこの写真を撮ってくれということらしい。コンニャクの刺身、筍の煮つけ、里芋・カボチャ・昆布の煮つけ、芋がらとアゲの煮もの、山菜の天ぷら、小粒のジャガイモを油で炒めて醤油で味付けしたものなど、おかずは豊富だ。

「これ“せいだのたまじ”っていうらしい」

後で知ったことだが、じゃがいもの名前の由来は江戸時代に遡る。中井清太夫という侍が、甲斐国、今の山梨県甲府の代官になった。浅間山の噴火からはじまる天明の飢饉を切っ掛けに、その備えに寒冷に強いジャイモを九州から取り寄せ、栽培を盛んに奨励した。このジャガイモは南米からインドネシアを経由して日本にもたらされた原種に近い。これが甲州、武蔵、信濃、上野、秩父などに広がった。

名称もインドネシアのジャカルタから来たのでジャガタライモ、馬の鈴に似ているので馬鈴薯、さらに栽培地にちなんで甲州イモ、普及した人の名を取って清太夫イモ、清太イモなどと呼ばれてきた。“せいだのたまじ”の“せいだ”は中井清太夫のことだという。ちなみにジャガイモの種類は様々に改良され今日栽培されているが、棡原の地区では未だに原種に近いこのイモが食卓に上がる。

撮り終えると食事になった。“せいだ”の一つを箸に突き刺して、口に放り込んだ。結構いける。しばらくすると酒盛りになった。玄関を挟んで広い部屋がある。古守先生たちだそうだが、その方からもにぎやかな声が聞こえる。

「明日は検診だ。早く寝ないとな」と今村光一。しかし3人の酒飲みの酒盛りはそれからもしばらく続いて、初めての棡原の夜は更けて行くのだった。

(ヘルスライフビジネス2015年9月15日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)

※第36回は5月9日(火)更新予定(毎週火曜日更新)