FDAの規制改正でビタミンが食品として販売可能に(49)
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理事長のローズマリー・ウエストさんの講演を聞くためセミナールームに移動した。お土産をあげると思いのほか喜んで、「マーバラス!」と叫んだ。中身は電卓である。日本ではそのころ二束三文でも、米国ではあまり普及していなかったしろものだ。喜ぶのは分からないでもない。しかしマーバラスとはあまり聞きなれない英語だから、通訳に聞くと「素晴らしい」とか「信じられない」とかいう意味らしい。辞書によると主にイギリスで使われる言葉となっているから、おそらく気取っているのだろう。以降、度々会うことになるが、そのたびにこの言葉を連発した。それで、我々はこの人を「マーバラ婆」と呼ぶことになった。もちろん本人は知らない。
とにかく彼女の話では、この団体の前身のアメリカ健康食品協会(AHFA)設立は1936年だという。第2次世界大戦より前のことで、正直驚いた。日本では2.26事件が起こった年であり、国名を大日本帝国と改めた年でもあった。次第に戦争の足音が近づきつつある時代で、健康食品などという言葉自体なかったに違いない。
ただし、食と健康の問題がないわけではなかった。明治の初めに陸軍の森鴎外と海軍の高木兼寛の脚気論争はよく知られている。ドイツの細菌学にかぶれた陸軍の森鴎外は細菌発生説をとり、イギリス留学組の高木は食事中のたんぱく質不足を主張して麦飯を奨励した。両方外れだったが、海軍は麦飯が幸いして脚気を逃れた。その理由が分かるのは後年で、東京大学の鈴木梅太郎が糠からオリザニン、つまりビタミンB1を発見して脚気論争に終止符が打たれる。
1930年前後になると陸軍は胚芽米を採用、農林省から米穀搗精等制限令が出て、一般の国民も胚芽を含んだ七分搗きを食べることが奨励された。理由は脚気の予防であり、体力の向上が目的だった。
こうしたこともあって、日本国内で胚芽の健康食品が登場したのは1912年のことで、今でもある京都栄養化学研究所が「ビーオー」という製品を出したのがそれだ。しかし他には健康食品らしきものはなく、協会団体ができたのは第2次大戦が終わり、日本が高度成長期に入ってからで、米国とのあまりの違いに驚かざるを得なかった。
このおばさんの話では最近、健康食品産業にとってエポックメーキングな出来事があったという。
「プロキシマイヤー・アメンダメンツ」だという。何んだそれ!聞いたが誰も分からない。通訳も首をひねっている。何度も聞き返して、ようやく「プロキシマイヤーという人がビタミンの規制を改正したようです」という。ビタミンという言葉で米国の事情通の富田さん気が付いた。
「FDAがビタミンを自由に食品として販売すること認めたんです」
米国ではビタミンは食品として販売されていると思っていただけに正直驚いた。米国で健康食品を規制する法律は「医薬品・食品・化粧品法(FDCA)」だが、これを管轄する行政機関が食品・医薬品局(FDA)だ。このFDAは1941年にビタミンの一日最低必要量を確立して、その表示を管理するための規制を決めた。以降、ビタミンの健康食品が消費者の間に広がり、ビタミンの大量投与が安全で、通常の摂取量より健康に良い効果があるという情報が普及するようになった。
(ヘルスライフビジネス2016年4月15日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)