展示会を前に新人「イワサワ」がやってきた(67)

2023年12月12日

バックナンバーはこちら

目を覚ますと時計の針は出勤ぎりぎりの時間を指している。「しまった」と思ったが、心は“侍”の私は、決して慌てることはない。これから戦場に赴く侍が、たがが5分や10分がなんだと思う。どうせ遅れても会社でいやな顔をされるだけで、貼られた遅刻常習者のレッテルが変わるわけではない。こっちは年季が入っている。

しかし、それにしても昨日は少々飲みすぎたとしばし反省した。この頃、飲むと記憶を無くすことがよくあった。理由は分かっている。日本酒のせいだ。あんこうの肝や生ウニなど美味しいものの味を覚えた。カワハギの肝はまだ食べたことはなかったが、動物のレバーはダメなのに、海産物の肝がやたらに好きになっていた。つまみがこうだから、どうしたって日本酒になる。飲み出した頃はお燗で飲んでいたが、ある時期から冷を飲むようになった。

最近の若い者に冷というと、「冷酒ですか」という。あんな冷やして飲む酒なんかうまいはずがない。常温だ。良い酒は冷が旨いと、ハーブや野草の研究家の高橋良孝さんから教え込まれた。

冷を飲むようになってから記憶が飛ぶようになった。つまり前後不覚というやつになる。しかしどういうわけか、いつも気が付くとボロアパートの布団にくるまって寝ている。「帰趨本能ですよ」という奴がいるが、酔うと犬やハトみたいに原始の血が呼び覚まされるのだろうかと不思議だ。

昨日もだいぶお酒を飲んだ。二日酔いで頭が重く、吐き気もする。ようやくスーツに着替え、コートを羽織って部屋を出た。住まいは東京郊外の西武新宿線の久米川駅近くの、団地に接した商店街の一角で、桜井荘というアパートの2階だった。

家を出て駅に向かうと、駅のほうから美容院に出勤する「みっちゃん」がやってきた。半年ほど前から、出勤時に美人のおねえちゃんと時々すれ違うようになった。ある時、後を追ってみると商店街の美容院に吸い込まれた。休みの日に店の前を通るとやはり彼女がいた。それからというもの、床屋から宗旨替えして彼女の美容院に行くようになった。店の主人は私よりやや年上の愛嬌あるが美人ではないお姉ちゃんだった。美人の方は店で「みっちゃん」と呼ばれていた。聞くと正しくは美智子だそうで、さすがは美人らしい名前だと悦に入った。

美容院に通うようになって秘かな楽しみを見つけた。髪を洗う時に理髪店はうつ伏せだが、美容院は仰向けで髪を洗う。顔にタオルをかけるが、みっちゃんのいい香りがする。まるで美しい女神に抱かれているような、夢心地な気分になる。

そのみっちゃんが駅のほうから坂を下ってくる。片手を挙げて挨拶をした。気づいた彼女がニコニコしながら近づいてきた。「おはよう」と声をかけながらすれ違ったが、その瞬間に違和感を感じた。微笑むというより、笑っていたのだ。振り返えると、彼女と目が合った。彼女の顔は明らかに笑っていた。しかも可笑しくてしょうがないといういう笑い顔だった。

急いでいたので、なんか変だなあと思いながらも、私も作り笑いを浮かべてその場を後にした。駅に着いて新聞を広げて、意味が分かった。片目がぼやけて字が読めないのだ。どうしたことかメガネの片側のレンズが外れてフレームだけになっていた。どうりで笑うはずだと思ったが、今頃美容院では笑い転げているに違いないと思うとちょっと傷ついた。

会社では、メガネは壊れたことにした。見ると机に見知らぬ男が座っている。展示会で忙しくなる前に、新人を入れたのだ。

編集長が「岩澤信夫君だ」と紹介した。「イワサワといいます」といって、椅子からスッと立ち上がって頭を下げた。背は低いががっしりした体系の男で、後で知ったが空手をやっていたという。しかも大山倍達の極真空手らしい。福武書店にいたらしいが、なんでこんな会社に来ることになったのか、可哀そうな気もした。しかし可哀そうなのはこちらも同じなので一緒だと思い直した。
(ヘルスライフビジネス2017年1月15日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)

※第68回は12月19日(火)更新予定(毎週火曜日更新)

関連記事