いつの間にか2階は漬物の展示会場に(72)

2024年1月16日

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いよいよ展示会の前日になった。しかし事ここに至っても編集長は喧嘩をしている。

 「だから、こちらは迷惑なんですよ」

電話の相手を怒鳴る。相手は園田社長である。

「また始まったよ」と葛西博士。展示会の会場となる晴海の南館は会場内で一番小さく古い建物だった。この館には2階があった。我々の展示会は1階でやることになっている。

ところが、以前から2階を園田さんが使いたがっていた。嫌な予感はしていたのだが、的中した。我々に黙って2階を使う契約をしていた。しかし、1か月ほど前にそれがバレた。しかも漬物の展示に使うという。

「やっぱりそうか」と新聞社の誰もが思った。

園田さんという人は若い頃、大阪化学新聞という食品添加物の専門紙の東京支社長だった。この会社を辞めた後、30代で食品研究社を興した。前歴が前歴だけに、添加物の媒体を始めそうだが、あにはからんや漬物の雑誌を始めた。

読者は不思議に思うかもしれないが、漬物に詳しいものならばすぐに分かる。漬物の会社は食品添加物の売り先だった。嘘だと思うならば安い漬物を食べてみればいい。旨味はグルソー、つまり味の素だということに気づくはずだ。これはれっきとした食品添加物である。

それで添加物の会社をスポンサーに、漬物メーカーを読者に、漬物の専門誌を始めた。高度成長期にスーパーマーケットが全国展開するなか、農家が農閑期に副業としてやっていた漬物はそれに乗って市場を拡大した。園田さんの食品研究社も一時期だが隆盛を極めることになった。だが長くは続かなかった。食生活が洋風化し、「お米離れ」が言われるようになった。これが影響して漬物は次第に斜陽産業になっていった。

健康食品のクロレラと出会ったのはそんな頃だった。クロレラは天然添加物(既存添加物)で、緑色の色素として使われていた。このクロレラの業者から健康食品業界に専門紙がないので作ってくれといわれて、始めたのが健康食品の新聞だった。

そんなわけで園田さんにとって本業はあくまで漬物の雑誌で、健康食品の新聞は付け足だった。それで展示会をするなら漬物の展示もやりたいと思う気持ちは分からなくもない。こちらも別な時期にやるのならいっこうにかまわないが、時期が同じで、しかも南館の2階では「そうですか」というわけにはいかない。どうみても健康食品と漬物ではミスマッチもいいところだ。

「でも仕方がないよ」と食品研究社の編集者の渡辺さんがいう。この渡辺美貴族子さんは編集長と同期入社で、編集長のことをいまだに「00君」と君付けで呼ぶので編集長は嫌がっていた。まるで天敵のようだ。その渡辺さんが雑誌の方の展示会の担当者だった。それで園田さんは説得に彼女をよこしたのだろう。話によると、企業もフロアーの半分くらいは集まっているようで、今更やめるわけには行かないとのことだ。こちらは「迷惑をかけない」というので、しぶしぶ納得する以外なかった。

そうしているところに電話が入った。「今着いたわよ」と野尻さんからだった。成田空港に“マーバラス婆”こと全米栄養食品協会(NFFA)会長のローズマリー・ウエストさんが到着したのだ。世界のNNFAの会長が展示会のゲストとして本当に来てくれたのだ。そう思うと誇らしくもあった。

会長の宿はお茶の水の「山之上ホテル」だった。夜にホテル内の中華レストランで食事するという。こちらにはそんな余裕がない。その時間には展示会場を走り回っているか、宿泊先の晴海のホテル浦島あたりの食堂にいるはずだった。

(ヘルスライフビジネス2017年4月1日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)

※第73回は1月23日(火)更新予定(毎週火曜日更新)

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