クロレラの取材と集金で台湾へ行く(81)

2024年3月19日

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7月になって台湾に行くことになった。7月から8月の真夏にはクロレラ原料の生産の最盛期になる。これを取材しろというわけだ。

台湾でクロレラの生産が始まったのは日本が関係している。クロレラは1890年にオランダの学者バイリンクによって発見された。地球誕生以来、細胞内に核を持った生物としては最古とも言われるクロレラは、クロロフィルを持っているため光合成の能力が高い。それで空気中の二酸化炭素、水、太陽光とごく少量の無機質さえあれば大量に増殖する。しかも栄養価も高く、特にたんぱく質が45%、脂質20%、糖質20%と3大栄養素に富んでいる。安価で大量に手に入る理想的な食糧というわけだ。

「日本が関係するのは戦後すぐの頃なんだよ」と社長の園田さんから聞いたことがある。ことクロレラの話になると園田さんは少々ウルさい。そもそも健康食品の新聞を出したきっかけがクロレラだった。スポンサーもクロレラの会社が多かった。といっても始めた頃はクロレラとローヤルゼリーくらいしかスポンサーもなかった。聞いた話を思い出すと以下のようになる。

1949年にアメリカのGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)とカーネギー研究所からクロレラの大量培養の研究を依頼された。頼まれたのは東京大学農学部の田宮博教授(徳川生物研究所所長)だ。GHQというマッカーサーであり、カーネギーというと米国の鉄鋼王である。カーネギー研究所は植物生物学などの研究で知られている。

GHQは戦後の食糧政策の一環としてクロレラに着目したのだ。そして培養の研究が託された。その後、徳川生物研究所で野外での大量培養の研究を行われ、後に武智芳郎博士の指導によって台湾で生産されることになった。そのために台湾政府や銀行、そして医師会も加わって、1964年に台湾緑藻有限公司が設立された。

台湾で作ることになったのは十分な光と温度が得られる亜熱帯の気候がクロレラの培養に打って付けだった。この頃、日本で消費されるクロレラは一部の国内産以外はほとんどが台湾で作られていた。

この生産の最盛期が7月、8月の時期だ。この期間の出来不出来で翌年の原料の価格が決まる。だから毎年この時期に取材に行く。ただし目的はこれだけではない。クロレラの原料広告の集金もあるのだ。75年には蒋介石が亡くなり、息子の蒋経国が後を継でいたが、1948年に始まった戒厳令はまだそのままだった。外貨の持ち出しも禁止されていて、直接会社からお金をもらって、日本に持ち帰らなければならない。

そんなこともあって、一人では心細いだろうと新人の岩澤君と2名で行けという。彼に聞くと中国語はもとより、英語もだめだという。しかも日本から一歩も外には出たことがないようだ。

「でも木村さんは香港や米国に行ったんでしょう」と、それだけで一目置いている口ぶりだ。しかし私が行ったのは添乗員付きの団体旅行で、香港は企業の招待、米国は自社が企画したものだ。香港はお客で、米国は編集長と旅行者がやったのに、ただお手伝いのようにして付いて行っただけだ。

「それなのに2人で行けとは、あまりにもご無体な…」と訴えたが、水戸黄門の悪代官さながら、「えい、黙れ、黙れ、黙りおれ!」と編集長は聞く耳を持たない。しかしテレビなら、そこへ助さん格さんが現れ印籠をかざし、東野栄次郎の越後屋の隠居が登場すれば一件落着だ。

「木村君、心配ないよ」と水戸黄門ならぬ社長の園田さんがたまたま現れた。「私だって喋れないのに行くんだから」と。確かに日本語以外にできそうもない社長が一人で行けるのならということで、胸撫で下ろして一件落着になった。

日本の台湾統治時代があって日本語で教育を受けた世代がいるから、結構喋れる人も多いという。駅でも繁華街でも困っていると、必ず「どうしましたか」と日本語で話しかけてくる人がいるそうだ。ホテルはもちろん、レストランでも日本語をしゃべれる人はかなり多いから心配ないと言いくるめられ、成田から飛行機に乗った。

(ヘルスライフビジネス2017年8月15日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)

※第82回は3月26日(火)更新予定(毎週火曜日更新)

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