スピルリナが売れない理由は販路が薬局だから(87)

2024年4月30日

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翌日も朝から取材先の企業を回った。その中でスピルリナを作っている会社も訪ねた。

クロレラもそうだがスピルリナも太古の微生物で歴史は20億年もある。

しかしクロレラは淡水に生息する単細胞の緑藻類だが、スピルリナは塩水にすむらせん状のらん藻類だ。栄養価もたんぱく質をはじめ、ビタミンなどの微量栄養素に富むことは知られていた。日本では以前からタイなどで大日本インキ化学工業が栽培を始めていた。最初は色素を摂るためだったと聞いた記憶がある。

しかし行き詰ったようで、結局、健康食品としてクロレラの販売方法を真似て薬局で売るようになっていた。ところがこの頃、日本ではクロレラのほど売れていなかった。

「なぜ日本、売れませんか」とスピルリナを販売する会社の役員が首をかしげる。

クロレラに続く柳の下の泥鰌を狙って、スピルリナを製造している会社が少なからずあった。

台湾側は売れなければ、せっかく作った培養施設が無駄になる。

この問題を説明するのは、こちらにすればそう難しいことではない。この頃、健康食品の販売は大半が百貨店の健康食品コーナーと訪問販売だった。薬局での売り上げは市場全体の1、2割程度しかなかったと思う。しかし訪問販売の売り上げは大きかった。

日本国内の訪問販売企業には広くとらえると、化粧品や保険などがあり、すでに一般に定着していた。また食品分野ではヤクルトなどもその範囲に挙げる人もいた。しかし健康食品に関連したものでは典型的な訪問販売と会場に人を集めて販売をする講習宣伝販売などの会社が大半だった。その後主流となるネットワーク販売、またはマルチレベルマーケティングといわれる訪販では、インペックスと日本シャクリーくらいしかなかった。

これらの訪問販売で売られている製品はアルカリイオン整水器や磁器マットレス、マッサージ器などの健康機器もあったが、健康食品では代表格がローヤルゼリーとクロレラ、そして高麗人参だった。クロレラに似たスピルリナが入り込む余地はほとんどなかったのだ。

「そうですか」と台湾の業者はため息をついた。

その後もスピルリナは日本ではクロレラを追い抜くことが出来ずに今に至るが、海外では違った。欧米ではスピルリナの方に人気があるのは不思議だ。

このほかクロレラの業者などを回って、その日の午後の早い時間に、仕事は終わった。台北市内は会社名と住所のメモを運転手に渡し、タクシーで移動した。最後の会社を終えたのは午後2時過ぎだった。

「腹減った。昼めし食べましょう」という岩澤君の意見を入れて、タクシーで円公園(円環)に行ってもらうことにした。そこは華西街と並んで台北の観光名所になっていた。パリの街中にある道路のサークルのようで、なんでも日本時代に作られたそうだ。

丸い輪の中側は屋台のような店でいっぱいで、外周を道路が巡っている。

その道路の外側の路にも屋台がズラリと並んで、何か焼いているのか、その一帯から煙が上がっている。なんだか薄汚くて、戦後の闇市を彷彿とさせるような佇まいだった。

「こんなところで食べて平気ですか」と岩澤君は心配そうだ。「死ぬこともねえだろう」と強がりを言ったが、ここに来た観光客は誰しもそう思ったかもしれない。

とにかく空腹に耐えられなくなって、店に入った。ラーメンに似たものを学生らしき一団が食べていた。それを指して、2つ注文した。出てきた器は日本のラーメンの半分もない小さなものだ。しかし間違いなく、スープにめんが浮いている。ただし、めん上にパセリのようなものが乗っていた。めんと一緒にズルズルと口運んだ。するとなんとも言えない香りが口の中に広がった。

「オエー」と岩澤君が変な声を出した。私も思わず顔をゆがめた。後で知ったが、パクチーである。ハーブのコリアンダーだそうだが、今まで、口に入れたことのない異様な香りだった。

(ヘルスライフビジネス2017年11月15日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)

※第88回は5月7日(火)更新予定(毎週火曜日更新)