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軽井沢でテニスしない?(193)
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夏も盛りになった。そうなると夏休みである。私には友人の土井賢という男がいた。その彼が会社に連絡してきた。
「夏休みに軽井沢でテニスしない?」
彼との付き合いは長い。なんといっても小学校にまで遡る。5年生の秋に私の家族はそれまで住んでいた東京郊外の小金井から埼玉県境の東村山に引っ越した。団地が当たったのだ。引っ越してみると、団地の周りはほとんど畑だった。春先になると関東の空っ風で土埃が舞い上がり、風景はカスミ、空は茶色に染まった。畑はまるで砂丘のようになった。
その畑の中の何軒かの農家のある集落に近くに小学校があった。地名は恩多町だったが、旧地名のままで大岱(おんた)小学校と言った。
私はそこに転向した。生徒の半分は地元の農家の子で、後の半分が団地の子たちだった。決められた2人掛けの机に座ると、隣に土井君がいた。彼は私より1年早く団地に引っ越して来たようで、半年前までは1㎞ほど離れた野火止用水の脇のお寺の境内にあった分校にいたそうだ。そこの生徒と他の小学校の生徒を集めて出来たのがこの新しい小学校だった。
土井君は比較的勉強が出来た。ホームルームでも筋の通った意見を言う。クラスの中では一目置かれていたし、度々学級委員の候補にもなっていた。
私が隣に座るようになって気が付いた。彼は結構意地が悪いということだ。例えば当時の筆記用具は鉛筆だった。鉛筆と消しゴム、それに小さな鉛筆削りを入れた筆箱に良く消しゴムを入れ忘れた。
「貸してよ」と言うと、初めの頃は貸してくれた。だが何度か繰り返すうちに、「もう貸さない!」と言い出した。さらに私の腕が彼の机の自分のエリアにはみ出すと言って、真ん中に線を引いた。それでもはみ出すと、削って尖がった鉛筆でチクリと刺す。
しかしいくら意地悪をされても転校生には友達はいない。それに家が同じ団地で、近かった。家を行き来する間に仲良しになった。
中学は東村山第3中学校に行った。3年間で1度しか同じクラスにはならなかったが、付き合いは続いた。高校も志望校に落ちて、滑り止めの学校に一緒に行くことになった。さらに大学は別と思っていたが、私が入った大学に1年遅れて彼が入って来た。つまり小中高大と一緒で、私は怪しげな新聞の記者になったが彼は教員になって、ようやく別々の道をたどることになった。
しかしそれからも付き合いは続いた。ある日彼が勤めている学校でテニスをしていることを知った。
~あなたを待つの テニスコート~と天地真理の歌「恋する夏の日」が脳裏に浮かんだ。歌につられて兄がテニスをやっていたことを思い出した。ちょうどビヨン・ボルグが活躍している時代だった。その木のラケットを使って、休みの日に中学のグランドで土井君とテニスを始めた。そして西武球場脇のテニススクールに通ようになった。
それで軽井沢だが、「奇麗なねえちゃんがいるかなア」と言うと、「また“テニス道”に反することを言う」と言う。彼は教師になってますます石頭に磨きがかかったようだ。
運良く8月10日土曜日から4日間に中軽井沢の民宿がとれた。テニスコートもあると言う。あとは楽しい軽井沢ライフが待っているとルンルンな気分だった。
(ヘルスライフビジネス2022年4月15日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)