通知の改正が杜仲茶ブームを起こす(218)
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この改正は薬事法の監視指導マニアルに当たるが、この「成分本質」に部位概念が持ち込まれたことは前回書いた。しかし改正された1987年9月の時点で、これが市場に大きな影響を与えるだろうことに気付いた人はほとんどいなかったと思う。ところが後々、これが大ヒット商品を生むことになる。
当時我々の大阪支局に南という男がいた。出来立ての支局で、事務所は梅田の地下化の東梅田駅から一つ目の南森町駅近くのボロビルの5階にあった。南さんの奥さんが事務で亭主が支局長だった。ただ支局長と言っても会社として正式に任命したわけではなく、いわば勝手に自称していたにすぎない。
彼は東京の雑誌部門の食品研究社にいたが、元をただせば新聞の方にいた。勤めは数年になるが、記事がちゃんと書ける貴重な人材でもあった。そんな彼が神戸の実家に帰りたいと言い出した。なんでも三ノ宮の実家を継ぎたいと言うことだった。
社長が聞くと、実家は菓子屋かなんかのようで、本当はあまり乗り気ではないようだった。しかし両親は長男である彼が大学へ行ったまま、東京の女性と職場結婚したため、それでそのまま帰って来ないのではと言う不安から、しきりに帰郷を勧めているようだった。そして出来たら店を継ぐ…。
南は長年の両親の説得に屈したようだ。しかし奥さんは菓子屋の女房になることにはあまり気乗りしなかった。ましてや亭主の両親と暮らすのを嫌がっていると言う。当然と言えば当然な話だ。
それではと関西に支局を開いて、そこで仕事を続け、住む場所も神戸の両親と同居でなく近くの大阪で良いではないかと説得した。すると今度は南が仕事は良いが住むのは大阪では嫌だと言う。神戸で生まれ育った彼は大阪を嫌っていた。確かに大阪人の大半は周辺から来た田舎者に違いない。しかし東京からすると神戸も大阪も変わりがないように見える。
「目糞鼻糞を笑うと言うことわざがある」と言うと、「東京の人間には分からない」とむきになる。とにかく夫婦で大阪支局を運営することになった。そしてその大阪支局長の南が東京に来た際に、日立造船が支局を訪ねてきて、杜仲茶を発売したと言う話を聞いたと言い出した。
プラザ合意の後1ドル200円台だったレートが一挙に140円まで円高になっていた。海外需要に頼っていた日立造船はこれによる造船不況の波を一挙にかぶることになる。因島にあった造船所を造船事業から撤退して7000人の従業員の解雇に踏み切った。そしてその中から始まったのが、杜仲茶のビジネスだった。さらにだいぶたった1993年にテレビ番組で取り上げられたことをきっかけに杜仲茶の大ブームを巻き起こした。
このため日立造船ではにわかに起こったブームに対応すべく、工場を増設する騒ぎになった。それまで原料を供給していた長野県産の杜仲では間に合わなくなって、日本の業者が中国にまで原料調達に行く騒ぎになった。
この杜仲は漢方薬の原料として樹皮が養命酒に使われてきた。1987年の46通知の改正でその他の部位、つまり医薬品に使われていなかった葉の部分がお茶として使われることになる。このブームで杜仲茶を販売していた日立造船のバイオ部門は年商30億円を売り上げ、市場規模全体では100億円近い売り上げとなった。
ただし「杜仲茶」は正確な名称ではなく、「杜仲葉茶」が正しい名称であると言うことを、劉さんが東京都主催の薬事法の講習会で指摘したところ、以降の行政の記述では「杜仲葉」と言うようになったそうだ。うっかりしていたのか。この指摘で行政も健康食品には「葉」しか使えないということに、改めて気付いたようだ。
(ヘルスライフビジネス2023年5月1日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)