- トップ
- ビジネス , ヘルスライフビジネス
- 何かあったら橋本に声をかけま…
何かあったら橋本に声をかけましょう(213)
バックナンバーはこちら
薬事法のマニュアル改訂で業界が大揺れに揺れている頃、同じ永田町でも政界が揺れに揺れていた。
1970年代初頭、戦後最長の政権で知られた佐藤内閣の跡目争いで揺れていた。争っていたのは「三角大福中」だ。山手線などの車内の週刊誌の中刷り広告の盛んに使われていた。この中の「三」は三木武夫、「角」は田中角栄、「大」は大平正芳、「福」は福田武夫である。
このなかで最初に首相になったのは田中角栄だった。東大や早稲田卒などの首相が大半だったなか、専門学校しか出ていないこともあって、豊臣秀吉に模して「今太閤」と呼ばれ大変な人気だった頃もあった。しかしロッキード事件で逮捕され、この解明を掲げた三木武夫が次の首相となった。
しかし、政界浄化を嫌った自民党反主流の“三木おろし”で退陣に追い込まれることになる。大平と福田の間で2年やったら辞めるとの密約で生まれた福田内閣も密約を保護された大平と総裁選で争った。福田は敗れて「天の声にも変な声もたまにはある」と言って退陣した。
ところが、首相に就任した大平正芳は1980年5月に衆参同日選挙に打って出て、選挙戦のさなかに急死した。その後、予定外のかたちで首相に就任した鈴木善幸が首相も2年で退陣、「三角大福中」の中で唯一残った中曽根康弘が首相に就任したときにはすでに10年の月日が流れていた。
組閣したはよいが、退陣後も巨大な派閥を引いて隠然たる力を持っていた田中角栄に頭を下げて首相になったと言われる中曽根内閣はそのせいで「田中曽根内閣」と言われることになる。この年で就任から4年経ったにも関わらず角栄の影響力から抜け出せずにいた。
こうした中、懸案だった衆議院の定数是正が5月22日国会を通過した。これで6月21日公示、7月6日開票が予定されている参議院選挙にぶつければ衆参同日選挙が可能になる。政権与党に有利なことは間違いない。これで政界は大騒ぎになっていた。
中曽根首相は5月24日の記者会見で「衆議院解散は念頭にない」と言ってのけた。しかしながら、首相は6月2日に野党の反対を押し切って臨時国会を召集、本会議が開けないと分かると、衆議院議長の応接室で、解散の詔勅が読み会下られて、衆参同日選挙が行われることになった。これを世間は「死んだふり解散」と呼んだ。この選挙で与党は歴史的な大勝を遂げた。
この選挙で田中派の橋本龍太郎が49歳の若さで第3次中曽根内閣の運輸大臣に就任した。ただし、初入閣は41歳の時で大平内閣の厚生大臣に就任している。以降、大蔵大臣、経産大臣などの重要閣僚、自民党の政調会長、幹事長などを歴任して内閣総理大臣にまで上り詰めて行く。いわゆる将来を嘱望されている政治家だった。
この頃、この政界のプリンス・橋本龍太郎を略して“橋龍”と呼んだ。この橋龍が健康食品の業界と縁を持っていた。理由は橋龍さんの父親・橋本龍吾さんが厚生大臣系傾斜だったこと。さらに親子2代にわたって大臣を務めたこともあって、橋龍さんの支持基盤には厚生関係の団体が多かった。当然、厚生省へもにらみが効いたのだろう。
全日本健康自然食品協会が唯一の業界団体だった頃から、賀詞交換や総会のパーティには秘書が来て挨拶をしていた。この縁が出来たのは、健康食品の製造会社の備前化成の影響だと思っている。子会社にビタポールと言う末端商品の販売会社があった。この社長の岡崎さんが、橋本龍太郎の後援会の幹部をしていた。
「何かあったら、橋本に声をかけましょう」と言うフレーズを本人の口から何度も聞いた記憶がある。
(ヘルスライフビジネス2023年1月15日号「私の故旧忘れ得べき」本紙主幹・木村忠明)